2008年1月20日日曜日

留学生として授業を受けるということ

以前、中国に留学した学生からこんな話を聞きました。
「留学してみて、日本にいる留学生の気持ちが少し分かった気がする。留学する前は、同じクラスで授業を受けている留学生を意識したことはなかったけど、「あの時声をかければよかったな」とか「淋しかったんじゃないかな」と今にしてみれば思うし、これからは自分にできることがあれば協力していきたい」
本学にもアジア圏を中心に留学生が30名ほどいますが、なかなか一般の学生との交流には難しいものがあります。海外への留学を考えている人には、日本に滞在している留学生との交流は大きな意味があると思うのですが、相手の国の文化や言語などに興味がない限りはなかなか共通項が見つかりにくいものかも。留学生が減っているという最近の事情もあるのですが、そういう場を設けられないことについて力不足を痛感しております。

実際に留学生として大学で授業を受けてみてどう感じるか、BGSUに交換留学中のMさんからのお便りを紹介します。今月からSpring Semesterが始まり、留学生活も後半です。(M)

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今日の最後の授業はAmerican Culture Studies(ACS)で、クラス・ディスカッションの日でした。
この授業はためになり、興味深く、また学内でも人気の授業らしいのですが、やはり文化的外来者である私には難しい部分もあります。
トピックの下敷きになっているアイディアが親しみのあるものでない場合は特に。
それでも今日は頑張って発言してみましたよ!
やっぱり討論は難しいですね。自分が発言することによって授業の邪魔になるんじゃないかなんて心配してしまいます。
言語の面では文法・発音・単語の選択など気になる事柄は山のようにあって、気をくじかれてしまいますし、意見の面では文化的下地の違いから、自分の意見が受け入れられるのか、理解されるのか、的外れではないか?という心配があります。つまり、文化が違うと着眼点も違うもので、私の発言と他の学生のそれはすこし角度が違い、それによって討論の流れを妨げることを恐れているのです。
しかし今日は、授業後に先生と授業中に言えなかった意見やその他を話し、少しすっきりしました。
アメリカ人がアメリカ文化を『見つめ直す』という学習環境のうち、第三者的目線を持つ私自身がクラスの中で自分をどう位置付けしていくのか、少し分かり始めた気がします。

現在、全ての教授に名前と顔を覚えてもらえるようにがんばっています。
5課目中3、4課目はすでに成功している気がしますが、やっぱり一番難しそうなのはACSの先生ですね。
ACSの授業だけでも5セクション約200人の生徒を教えている先生ですから。
今日話した時に名前を聞かれたので、とりあえず忘れられないよう努めようと思います。

以前授業中の映像資料や黒板の文字などについて相談に行った時にはとても素っ気なかったです。
黒板の文字が読めないといったら、「どうにもできん、自分ががんばって読むか聞き取れ」ですよ。寄り付く島もありません。
あの筆記体でもない、走り書きにも見えない黒板上の棒と線の固まり-所謂ミミズののたくったようなもの-を知識伝達の基本信号のひとつである『文字』という形に、体裁を整えるだけでもいいんですが。
まあ、字が汚くて本当にどうしようもない、改善できない人っているのかもしれませんが・・・、「じゃあ今度から丁寧に書くよ」と返ってきただろう今までの教授達の返事とはちょっと違ったものだったので、少しびっくりしました。

その会話で逆に、「留学生だから」という理由で自分が今までいかに恩恵を受けてきたかを知らされた様な気がします。
今まで正直、外国人ということを言い訳にして、無意識に(時には意識的に)甘えていました。
これは冬休みに旅の最中でも感じた事なのですが、マイノリティでいるというのは本当に大変なことですね。大学のコミュニティ外だと特にそれを感じます。
大学構内はヘルプも充実していますし、生徒が誰であれ快適な学習環境を提供するという理想を様々な機関・教授・他学生とも実践していて、それは本当に助かるのですが、それに甘えすぎてはいけませんよね。
手加減をあてにしないでまず自分自身でどうにかしないといけない、というのは経験上分かってはいても、自分ではどうにもできずまた助けも期待できないことは(特にマイノリティの立場においては)往々にして起き、その中で大事な事は、どう物事をうまくいくようアレンジするかですね。
場合によっては妥協や諦めも必要でしょうが、それは最後の手段にしておきたいものです。
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